ふせったー、一連のツイートを元に加筆修正。
こちらは旧考察座から移植した記事であり、内容は2023年3月時点のものとなっています。
はじめに
私は生物とか環境とかをちょっと齧った人間で、それらの知識をもとにこの怪文書を書いています。文化風俗系はさっぱりわかりません。
AURORAの季節コンサートの中では特に4曲目Warriorと5曲目The Seedにおいて、Skyの生物についてとても興味深い情報が落とされたと感じました。そのためこの2曲についての記載が長くなっています。
前提として、このコンサートで見る記憶は光の生物が主役で、生物側の視点でしたよね。 なので生物側の主観が混ざっていることを念頭に入れておくべきだと思っています。
現実世界でも人間、鳥、虫の知覚する世界は例えば「視覚」「聴覚」「嗅覚」どれか一つとっても各々で全く違います。
生物たちが生きていくために必要な感覚を各々適応させてきた結果、同じものを見ていても見えているものが全然違ったりするのです。
1曲目 Exhale Inhale
コンサートの掴みの曲。正直私がここで書ける感想はありますが考察はほぼない。
無理やり読み取るなら
- 元から光は世界を巡り循環していた
- 貴方たち星の子の先祖は精霊である事の強調
なんですかね。4人に囲まれるシーンがなかなか意味深でした。


そしてAURORAさんが降臨。
このシーンで星の子はケープを纏っていないので、余分の魂(光の翼)を持っていない素の状態、一対一でAURORAさんと対面しているんですね。

…と、Twitterではここまでしか書かなかったのですが、他の方々の考察を見ていて自分なりに一番しっくりきたのがこの曲は星の子に課せられた使命を表現しているのではないかということです。
生えていた木は倒れ、飛んでいたマンタは蝕む闇に捕らわれ、歌詞も合わせて「異変が起き、本来のバランスを失っている今の世界に光を届けるのは貴方たち星の子である」と。
はあ~なるほど、そこまで全く考えが及ばなかったなあ…と素直に関心、納得したので加筆しておきました。
現実の地球においても大気、海洋に様々な物質循環が存在するので、それに倣ってSkyにおける光の循環も後ほど考えてみたいですね。
2曲目 Runaway
魚から始まるこれもかなり衝撃的な幕開け。そこから蝶になり、最後には鳥になって飛んで行く。
以前質問への回答で「Skyの空を飛ぶ生物も、元は海から生まれた」というものがありました。(公式YouTube「開発情報:深淵の季節Q&A」10:43~)
登場する光の生物は小魚、ツバメウオ、幼マンタ、蝶、鳥です。
これらの生物が進化的に直接繋がるものかどうかはよくわかりませんが、少なくとも光の生物が水中から空へ進出したのは確かなようです。





あの山を目指し進む光の生物も精霊、どちらも歌詞から「あるべき場所へ帰りたい」という意識が強く、共通しているように思えます。
旅路を互いに邪魔するでもなく、隣で同じように「帰る場所」を目指して進んでいる隣人のようです。

高台の上にいる子供は季節のクエストとの整合性をとるなら幼少期の駆け行く旅人でしょうか。
この子供は王子(預言者の石窟壁画に描かれている金色の子供)ととらえても違和感はあまりないので、これはどちらでもよいかもしれません。

それにしても孤島は指差すキャンドル職人や先導する星読みの記憶で天から降ってくる子供(=王子?)、駆け行く旅人の記憶、さらに星の子が初めて訪れる場所であるなど、幼い子供との関係が深いですね。誕生の地、始まりの場所という印象が非常に強いです。
そして精霊の姿は皆モブ精霊で表現されています。 精霊たちの記憶には特定の外見をもつ他の精霊が出演していることがあるのとは対照的です。
例えば駆け行く旅人の記憶には、指さすキャンドル職人や先導する星読みのような精霊が出演していました。

つまり精霊と星の子は、精霊ごとの外見の違いを認識できています。星のキャンドルを捧げ金色になった精霊が、他の精霊の記憶にもいたりするのでわかりやすいですね。
その一方で生物たちにとって精霊の見た目による区別は基本ついていないようです。 これは全ての曲で共通です。私たちも普通なら群れた蝶や鳥の一匹ずつの区別はつきませんし、何もおかしい事ではないでしょう。
ですが例外が一人おり、神殿の入口に立っている孤島の大精霊だけは鳥に認識されているんですよね。
たしかに瞑想ムービーでも鳥と意志疎通している様子でしたけど、じゃあ孤島様って何者なんだ…?ってなります。

まとめると、この記憶が描いたのは光の生物の進化史、そして精霊と光の生物に共通する本能・根源的欲求ではないでしょうか。
3曲目 All Is Soft Inside
これも正直考察というか解釈というか、難しい曲でした。 終始小さなクラゲ視点で進んでいきます。
2つめのクエスト同様、鉱石を採りに踏み入ってきた精霊にクラゲは邪険にされ追い払われています。
けれども足を踏み外した精霊を助けてあげているなど、クラゲ側は精霊を無下には扱っていません。


雨林地下洞の上へ上へと昇っていくと、精霊が3人います。 これ、2つ目のクエストで助けた覚醒の採掘者たちをクラゲ視点から見たものではないでしょうか。精霊の区別がついていませんが、先ほども書いたとおり我々がクラゲ一匹ずつの区別がつかないのは逆もしかり、ということかと。


いずれにせよ彼らはクラゲを邪険にしている様子はあまり感じられないので、覚醒の採掘者のようにまだクラゲに対して友好的な精霊もいたということなのだと思います。
シーンが切り替わり、夜空をクラゲたちが大移動する幻想的なシーン。王冠クラゲまでいますね。
辺りを見渡しても原罪山が見えません。つまりここがどのあたりで、どこに向かうのか推測しようがありません。 雲の多さからしておそらく雨林上空かと思ったのですが不明です。

このシーンは私の中で2種類の解釈があり
- Skyのクラゲは本来夜になると活発に空を飛び動く夜行性の生物である生態の表現
- 精霊たちに地下洞を明け渡し、自発的に移住している場面
というものです。
1.夜行性仮説
星の子が行く先々で出会うクラゲたちは、あまり陽の当たる場所にいる印象が無いんです。 曇り空の雨林、楽園の島陰や洞窟、星月夜の砂漠など。 それにあまり動きません。一方ここでは見たことないくらい移動していますよね。 昼は日陰で休み、夜は活発に動く。夜行性生物の活動の典型です。




暗い夜となれば、地上は闇に生きる生物の時間のはず。しかし雲上に出てしまえば月明かりと星明かりが降り注ぎ、関係ないと言わんばかりの光景です。
光の生物といっても太陽の光ではなく夜の月と星明りの下に生きる、そういった生き方をクラゲは選んだのかもしれませんね。
2.移住仮説
精霊たちがやって来て手狭になった地下洞から、大群で移住先を求めて引っ越しの最中であるという説。 夜空の印象は星月夜の砂漠に近いので、例えばその船がある入り江であったり、あるいは原罪の城の地下だったりと、今クラゲたちがいる場所へ行く途中なのかもと考えられます。
クラゲと精霊にまだ信頼があったことと、このシーンからあまり負の感情を感じられないので、クラゲ側から自発的に明け渡したという印象です。 といってもクラゲの感情はわからないので、なんとも言えませんが…。
4曲目を考えるに、精霊と生物との決別の第一歩と言えるのかも…?
夜空の雲海を飛ぶ海月、Skyの世界に実際行けたら見てみたいもの第一位です。
彼らはちゃんと行きたい方角へ飛んでいるのか、風任せの旅なのか、どっちなんでしょう。
というのも海洋生物には遊泳生物(ネクトン)と浮遊生物(プランクトン)という区分がありまして、この区分は大きさではなく『水流に逆らって泳げるかどうか』で決まります。
長らく現実のクラゲはプランクトンだと考えられてきたのですが、最近はちゃんと指向性をもち移動しているネクトンであるとするのが定説になりつつあります。 水族館や海で見れる比較的身近な生物のクラゲですが、まだまだ分からないこともいっぱいあります。
この曲は私たちプレイヤーが普段見ることのできないSkyのクラゲたちの一面を補足するものだと思っています。
4曲目 Warrior
ここからちょっと長いですので、適宜休憩を入れるなりしてください。
衝撃も衝撃。ええ、頭を殴られたような気分になりました。 同じ曲、同じ歌詞でここまで与える印象が変わるのかと。この表現力には脱帽です。
マンタとなり、群れで原罪山に向かって飛んでいきます。 砕ケル闇ノ季節、虚の中にあったマンタの記憶も彷彿とさせる光景です。マンタはこのように大群で渡りをしていたようです。


飛んでいると、目の前には大砲を積んだ船が現れ、網を発射してきます。捕らわれた仲間を眺めながら進むと、どこか見覚えのある岩の地形や建造物が。 ここは峡谷。この時代にはマンタを捕獲し、檻の中で飼育していたようですね。

気になった点は
- 精霊が一人も登場しない
- 慈愛の戦士の記憶との違い
- 捕らえたマンタの利用先
この三つです。
結論を先に述べると、私はこの記憶をマンタが精霊との絆を絶ち切り、自らを解放した時の記憶だと考えています。精霊側からすると最も身近な光の生物に見放された瞬間です。
まず精霊が登場しない理由としては
- マンタが本当に放置されていた
- マンタ側の心情により登場していない
と2つの予想が挙げられます。
そのうち1つ目に関しては、個人的に可能性は低いと考えます。 マンタの捕獲から飼育までを自動化していた可能性はありますが、例えば自由に飛び回るマンタに網を命中させ生け捕りにするのは、かなり精密さを要求される作業だと思います。生け捕りにしている以上、怪我をさせたり殺したりしてしまっては精霊にとっても損失になるはずだからです。
そのためこの説は却下し、船の上には当時捕獲や運転を担う精霊が、同時に飼育担当の精霊もいたと考えます。
では、マンタの心情により精霊が登場しないとはどういうことか?
最初ふせったーでは「捕まったショックにより精霊の姿を認識していないのでは?」と書いたのですが、自分の中でより納得できる解釈ができたので、そちらを語らせてください。
ずばり「マンタは自らの精霊に対する固定観念≒絆から自分たちを解放したため、この出来事に精霊は関わっていないから」ということです。 もう少し詳しく書きますね。
これまでの精霊たちの記憶の中で、光の生物は皆精霊たちに協力的です。地下洞のクラゲや、レース用に捕まったであろうマンタでさえも、雑に扱われようがこれまで精霊に対し無条件で協力的かつ服従する姿勢を崩しませんでした。
これがマンタたちの固定観念、「絆」と表現して差し支えないと思います。
絆というと友情に関連した良いイメージを抱きがちですが、そもそもこの漢字の語義は「動物を繋ぎ止めるための綱」で、「絆す」という言葉にもあるように「縛りつける」に近い意味ももちます。
精霊と光の生物たちの間にあったものとしてこれ以上ない、ぴったりな表現ですね!(白目)


その絆を、マンタたちは自ら絶ち切って己を解放した。 「マンタの、マンタによる、マンタのための解放」です。
Warrior自体も勇ましく、明るい曲調の歌ですよね。つまりこれは空を飛び、網から逃れ、自分たちは檻に囚われている必要のない力強い生物だと思い出した解放の記憶です。
だからそこに精霊が介入する余地はない。自分達だけで完結した記憶だからこそ、精霊が登場していないのだと思います。
長くなりましたが、この記憶に精霊が出てこないのを私は上記のとおり解釈しました。
慈愛の戦士の記憶では皆様もレースに爽快感を感じたと思います。コンサートでマンタ側の事情を知り、自分の感性は精霊寄りであることを否応なしに突きつけられる…製作陣なんてことをしてくれたのでしょう(褒め言葉)。
精霊たちにとっては栄華を極めた時代であった反面、マンタにとっては都合よく搾取された時代であったわけです。
さて、このマンタたちの記憶には慈愛の戦士の記憶と一致しない部分があります。 マンタのいる檻の作りです。
慈愛の戦士の記憶ではテントに近い作りですが、マンタ側の記憶ではダイヤ石のついたケージです。 慈愛の戦士の記憶から少し時が進み、時代の終焉にはこんなにも雑な扱いだったということでしょうか。あるいは慈愛の戦士の時も主流はあの檻で、彼がマンタを思って待遇を改善し、広く動きやすいスペースを確保してあげたとも考えられます。 現実でいうところの動物福祉ってやつですね。


いずれにせよ、彼が調和を得た慈愛の戦士であるのは、あの時代でもマンタに敬意をもって接していた事が大きく、だからこそマンタも彼に答えたのだとわかります。
それと、この捕まえたマンタたちはレースにしか使わなかったのでしょうか。 レースにそこまで大量に捕らえる必要はあったでしょうか。
例えば現実において競馬レースのため生産されるサラブレッドは、成績を残せなければ馬肉として利用されることもあるのです。
おそらく峡谷の時代に稼働していたと思われる秘宝の環礁の施設には、マンタを利用していたと思しき壁画があります。レース用マンタとしての待遇はまだマシな方の扱いだったかもしれません。

そこに砕ける闇の虚に囚われたマンタの詩も加味するとこの歌におけるマンタの”解放”に、より重みが増します。
彼らは空を自由に飛ぶ生き物。 絆無くして繋ぎ止めることは不可能でしょう。
マンタが星の子に協力的であることは、精霊の後を継ぐ存在である星の子が精霊とはまた異なる存在であると彼らに認識されている何よりの証拠だと思います。
ところでこの曲、これまでの記憶では傍にいたAURORAさんの光が、原罪山の山頂の光となり曲に合わせ拍動していたことにお気づきでしょうか。まるでこちらを呼んでいるようです。
明るい導、山頂の光…果たしてそれは本来マンタたちが目指すべき光だったのでしょうか?それとも……。
この記憶で解放されていた彼らが果たして目的の場所へたどり着けたのかどうか、それはもう誰にもわかりません。
峡谷神殿の瞑想ムービーにて、峡谷の大精霊は生命の光たる星の子の炎で遊んでいましたね。今見ると、とても象徴的だと思います。

調和の知恵を生物との関係構築に生かさず娯楽のために消費し、光の生物との絆を失ったのです。
光と共に闇に対抗する手段を失った先には、滅亡しかなかったでしょう。
後編に続く。