はじめまして。あきらといいます。
普段はXにいて、ふわっとした考察もどきを投稿してあそんでいたり、集い:ほしのこ集中庵を主催したりしています。
こちらの場所では考察をメインにする予定はなくて、もっとゆるくて種類の違うものを書いていこうとおもいます。
自己紹介はこのあたりで。
初投稿の記事をはじめます。
この素敵な記憶、思考、想像の記録庫の片隅に、私の書架を設けていただけることになった。Skyを愛する人たちが、Skyで拾い集めた大切な記憶や感情を置いておく場所。
ここで私は、現実世界で言う『廃墟探索ブログ(不適切な表現かもしれないけど、ご容赦ください)』みたいなものを綴っていきたいなと思っている。
……Skyは、日々新しくなって、今や煌びやかな新機能や帰ってきた精霊たちで溢れているのに、どうしてわざわざそんな、辛気臭いコンテンツを?
そんな声が聞こえる。ごもっともである。でもあえて『新しく王国にやってきた/戻ってきたもの』ではなく、『何百年も前に失われて、もうきっと2度と目覚めないもの』の話をしたいのだ。
暗いよ!さては、「昔の淋しい雰囲気のSkyの方が好きだった」って言う懐古厨なんでしょう!
そんな声が聞こえてくる気もする。ごもっともである。そしてその通りでもある。でも、誤解なきようお伝えしたいのだけど、私は今のSkyも大好きなのだ。純粋に楽しいし、眩しくて賑やかで、「王国にいるどんな子だってひとりぼっちにはさせないよ」と言うような、烈しいまでの優しさが、好きだ。
ならなぜ、真新しいものではなく、沈黙したままなにも変化しない『廃墟の話』をしたいのかというと。書架へ一番最初に収めるこの記事では、その理由をお話ししたい。
_____ 突然だけど、現実の世界の、昔の話を始める。
まだ暑い日の続く中、涼しさが忍び寄る9月の終わり、子供の頃の私と姉は雨上がりの外へ出かけた。何を詰め込んで帰るか予定のない虫かごを持って、湿った空気の中を走って、村の中の「おみやさん」へ。私達が生まれ育った場所は山の中にあると言っても過言ではない集落で、村の中には家と、木と、田んぼと、神社しかなかった。わたしたちは深い意味も知らず、神社のことを「おみやさん」と呼んでいた。おみやさんには、いろんな虫、どんぐり、巨木、木陰、長さのばらばらな落ちた枝、苔むした灯籠と石垣、ぎぃぎぃと軋む階段、子供の私達にとって大切なものが全部そこにあった。
なにをするでもなく、でも全てがそこにあったので、わたしたちは退屈ではなかった。
ふと、先程やんだ雨がまた落ちてくる。慌てて野草や枝でいっぱいになった虫かごを掴んで神社の軒の中へ走る。あっという間に、細い雨が音を立てるほどの勢いに変わる。大人になってから気づいたけれど、木や土の上に降る雨は、まるで吸い込まれていくように静かだ。コンクリートを叩く雨はばちばちばちと騒がしくて賑やかだけれど、あのとき自分たちが聞いていた雨は、さーーーーーー、とそんな音で、ただとても静かに降っていた。
山の中に住んでいれば急に変わる天気は珍しいことではなくて、そのときも姉と並んで、ぎぃぎぃと軋む階段に座って、雨が降りる境内を見ていた。
小さな私はふと気づく。境内の向こう、田んぼの畦に咲く赤い花。彼岸花。細い雨で白く煙って、赤い輪郭をぼやけさせて、でもまっすぐ咲いていた。彼岸花がこちらを見ている。わたしは少し寒くなる。
わたしたちの地域では、彼岸花を持って帰るとその家は火事になると言われていた。子供心にそんなことはあるわけが無いと思っていたけれど、それでも私たちは家に彼岸花をつんで帰ったことは無かった。花の癖にあまりに存在感のあるそれ。葉のないまっすぐな茎、真っ赤で繊細で豪奢な花、何本も群れてしんと咲く、美しい花だった。今思えば美しさに胸を打たれていたのだろうけど、それを見たときに走る胸騒ぎが、私は恐ろしかった。
見ている。見られている。居心地が悪くなって急に怖くなって、たった数分の夕立をとても永く感じた。雨が上がったあとの黄色い日差しと、姉の手を引っ掴んで走って家に帰っているときの動悸、家が見えたときうなじに刺さっているように感じた視線や気配、玄関をくぐったときの安心感。子供の自分をぐらんぐらんと振り回す、そんな色んなものが私は怖くて嫌いだった。
けれどすっかり大人になってから思うに、あれは、なんて大切で尊くて、取り戻しようのない感覚だったのだろう。畏怖も心細さもなにもかも、小さな自分が見ていた大きな世界にしか、存在しないものだった。
いまはもう、珍しくなった彼岸花の群生を見ても、急な雨に振られても、恐ろしく思うほどの感動は起こらない。でも雨に濡れた土の匂いがすると、ふと、帰れなくなった神社の中で座り込んでいた私達を思い出す。いつかこれも忘れてしまうのかもしれない。昔を思い出すこと、少しでも心が動くこと、それらは貴重になってしまったことにすら気付かず過ごしがちだけれど、気付いたときには、大切に触れたいと思う。
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孤島の寂しく多彩な空の色、草原の花と蝶の群れ、雨林の細く冷たく静かな雨、峡谷のふしぎな焦燥感、捨て地の足が竦むような闇、書庫のざわざわとした未知なるものの存在感、
子供の頃確かに身近にあって、でもなくしてしまった感覚たちが、Skyの中にはあるとおもう。Skyの中のわたしは確かに”子ども”なのだ。わけもわからずそこに来て、何も知らぬままに進み、思うがままに歩き、感覚のままに飛び、出会い、遊び、気付かぬうちにたくさんのことを学んで、理不尽にも思える驚異に立ち向かい、最後に途方も無いほどうつくしいところへたどり着く。
小さな画面越しに、毎日わたしは小さな頃の自分と出会う。いいゲームだ。長くなったけど、これはそれだけのはなし。
上にまるごと引用したのは、4年前に私が書いたnoteの記事だ。あのころと今も気持ちは変わっていなくて、Skyがずっとずっと、変わらず大好き。
当初の『廃墟探索ブログ』をなぜSkyで書くのかと言う理由に戻るが、私は6年間ずっと、幼い頃の自分を探すためにSkyをやっている。新しいものも賑やかなものも大好きだ。でも、そういった新しいコンテンツを楽しんでいるのは大人の自分であって、自分が小さかった頃に抱いていた畏怖や不安や感動を思い出させてくれるのは、いつだってSkyの淋しくて悲しい側面だった。だから私は、そういうものたちの話をしたい。
精霊に建てられ、いつしか使用者や主人が消え去って、数百年ただそこにあった廃墟群の話を。荒れて、崩れて、やってきた星の子へ愛想の一つもせずに沈黙している古い遺跡の話を。
うつろな建物をうつろなままに。
閉じた歴史は閉じたままに。
なにも語らないものを静かなままに。
現実世界の廃墟探索ブログを読んだときに胸が騒ぐ場所はきっと、子どもの頃には胸の中心にあった、冒険心だ。
できれば、読んでくださる方々にとって、胸がざわざわする記事を書きたい。読んだ後には子どもの魂に戻ってSkyを開きたくなるような、そんな書架にできたらいい。
長い話になってしまったけれど、読んでくださりありがとうございます。
次の記事からは、そういったことを目指したものを書いていく予定なので、お付き合いいただければ嬉しいです。